2014年 - VECサロン
2014年
- 日本のIndustry4.0「セキュアなモノづくり革新」
VEC事務局長 村上 正志 - Industry4.0とそのコンセプトについて
VEC事務局長 村上 正志 - 制御システムセキュリティ対策実現に向けたポリシーおよび発注仕様書の検討事項について
VEC事務局長 村上 正志 - 宇宙 時間 空間 素粒子
VEC事務局長 村上 正志 - 病と生きる家族をもって仕事をしている人へ
VEC事務局長 村上 正志 - 制御システムセキュリティ5Sの進め方と人材育成について
VEC事務局長 村上 正志 - 「顕」と「密」
VEC事務局長 村上 正志 - 時代の変化、環境の変化に対応の化学業界について
VEC事務局長 村上 正志 - 計装制御システムセキュリティ インシデント対応での復旧作業について
VEC事務局長 村上 正志
病と生きる家族をもって仕事をしている人へ
病を持つ妻もしくは家族を持って仕事をしている方に読んでいただければと思って投稿しました。
「我慢できない体の痛みを感じて病院へ行って検査をしたら、末期癌の宣告をされた。」と妻から電話を受けたのが、四年前の5月であった。
その病院の医師から、すぐに入院することを勧められたが、推薦状を書いてもらって、国立がんセンターの診察の申し込みをした。それから一か月後に国立がんセンターの診察を受けて、即、妻は入院した。
検査結果では、心臓の裏側の肺に、ピンポン玉ぐらいの肺癌細胞があり、左右の副腎がゴルフボード大に腫れ上がり、背骨や肋骨、手足の骨に骨を溶かしていく癌細胞があり、大脳や小脳に小豆やゴマ粒のような癌細胞が確認できた。
妻に問うと二年前から、痛みが体のところどころにあり、痛みを訴えた妻に「病院に行こう」と言ってきた私だが、妻の「病院へは行きたくない。」の頑固さに押し通されたことが悔やまれてならなかった。
自治体から送られてくる健康診断にも、「行かない。」と言ってきた妻である。
妻と知り合ったのは、私が29歳を過ぎたあたりである。場所は、伊豆の国道の脇にある大きな喫茶店である。喫茶店のオーナー(女主人)と仲良くなって、「誰か、良い人がいたら紹介して欲しい。」と声をかけたのがきっかけで、「この人なら、お似合いよ。」と引き合わせてくれた。黒髪が背中の真ん中あたりまで伸びた色白で細めのさわやかな娘だった。一時間ほどお互いのことを話し合った後、夕陽を観に行こうと私の車(黒とグレーのツートンカラーのパルサー)に乗って、伊豆の山の展望台へ行った。
二回目のデートは、三保の松原へドライブに行った。三度目のデートは、西伊豆を回って、その夕食後にプロポーズした。子供は、男と女が一人ずつ授かった。
入院して一か月半後、背骨の三番目の骨は溶けて背丈が低くなったが、治療の甲斐もあって、脳の中の粒はほとんどなくなり、溶けかかった骨は再生をし、副腎も元の大きさに戻った。肺の癌細胞は小豆ほどに小さくなったが消えなかった。七転八倒の痛みも無くなり、不思議な回復記録を残した。頭の髪の毛はほとんど抜けた。その間に抗がん剤は、二つ目になった。築地の国立がんセンター中央病院は、部屋の窓から東京湾を見渡せる病室だった。夕陽の演出は毎日が違っていてあきなかった。痛みが無くなると、妻は、家へ帰りたいと言う。家と言っても賃貸マンションであるが。一緒に生活したいと言う。「病院は嫌いだ。」と妻が言うが、病院の看護の方々や医師の方々はとても良くしてくださってありがたかった。患者にニコニコ顔で愛敬を振りまいて、部下の医師を引き連れて廻る医部長以外は。(医部長の巡検は不要だと思う。)妻の担当医は、医長であった。妻の我儘な話を聞いて、メンタルな部分までケアが行き届いていた。私も妻も医長を信頼していた。
退院後、12月までは普通に暮らしていた。月に一度の検診で病院に電車で通えた体力はあった。12月になって容態は急変し、夜中に相模原から築地まで救急車を走らせた。半年の命かと思ったが、命をつないだ。あと、二時間遅れていたら間に合わなかったと医師から聞いた。抗がん剤を変えた。抗がん剤に慣れた頃二回目の退院をした。新年を迎えていた。
退院して、家では、妻は、洗濯や掃除をかってでた。薬の副作用で水は触れなかった。グレープフルーツは薬が効かなくなるということで食べられなかった。イチゴやメロンやリンゴ、梨、バナナ、びわと季節の果物は、妻に食べさせたい気持ちで仕事の帰りによく買った。
国立がんセンターの月に一度通うことで、様々な人を知ることができる。妻が入院している間にも人と知り合う。癌の宣告を受けた人の気持ち。それを知った家族。生きられる時間を知らされた時の人の気持ち。日に日に強くなる癌の痛みに強い痛み止めを飲んでいる人の気持ち。抗がん剤の副作用と闘っている人の気持ち。その家族の気持ち。妻と私と子供らは、それらを経験しながら、周りの同じ境遇の人たちのことを思った。妻と話し合った。生きていることに感謝が持てるか?妻は、「感謝している。」と言った。
2013年の大晦日、家族がそろって、一つのテレビを観ながら、年越しの時間を過ごした。とても幸せだった。新しい年の正月2日の正午から、妻が声を発しなくなった。首を縦に振ったり、横に振ったりするだけで、顔はにこにこした観音様のようで、その異変に気づいたのが、夕方であった。すぐに病院に連絡した。タクシーを使って一時間半かけて、病院へ着いて、入院した。医師の診断は、「もう、数日もつか・・・」と言われた。数日後、右半身が動かせなくなった。仕事の日が始まったが、休暇をお願いして、毎日通った。いつ来るかわからないがその日が来た時の為に、病院から妻を引き取る段取りや葬儀屋さんの手配をした。休むとやがて仕事は溜まる。休める日数の限界がおのずと見えてくる。1月14日の夕方、妻は逝った。その連絡を出張先で息子から聞いた。
妻は、癌の告知を受けてから、3年と7か月を癌と生きた。
妻の身の回りを整理している時に、妻の手記を見つけた。その中の一つに、
「毎日心掛けること
1.毎日暮らすことができることに感謝を忘れない。
2.家族に支えていただいていることに感謝を忘れない。
3.実家のお母さんが、私が帰った時にいつでも快く迎えてくれることに感謝を忘れない。
4.仏様によって救っていただいていることに感謝を忘れない。
5.他宗教の方々も救っていこうとしている仏の心をいただいて私も祈らせていただける感謝を忘れない。」
と書いてあった。私の家族は仏教徒であるが、妻は。朝晩、お読経をしては、この書いたものを心に読んでいた。
病を抱えて、苦しいのは、本人だけでなく、家族もそれぞれ苦しい。その苦しい心を救われる経験を私達家族は経験した。
亡くなった家族の存在を忘れようとすると心は苦しくなる。心にいつもあると呼びかけて生きることで亡くなった家族も今を生きている家族も穏やかになってくる。相手を思う心は、心の奥深くで通じるものである。
空海の言葉に、
「若し自心を知るは即ち仏心を知るなり。
仏心を知るは即ち衆生の心を知るなり。」
というのがある。
その意は、「わが心と仏の心と衆生の心の三つは別々のものではなく、一味平等なりと知ることが覚りである。」と説く。わが苦しみは、仏の苦しみであり、衆生も同じ苦しみを持つ者がある。だから、衆生の苦しみが救われるようにと祈ることは、仏の心と一つになった覚りの心でもある。
“一日、一日、生かされていることに感謝を持って、他の為に祈る。”
合掌